「愛は与えるもの」という言葉が、苦しく感じるとき

愛されたいと願う心は、どこから来るんだろう

小さな頃、私たちは「ありのままの自分で愛される」ことを、心の深いところで求めています。


でももし、そのときに安心して甘えられなかったら――

  • 気を使って笑ってしまったり
  • 期待に応えようとして頑張りすぎたり
  • 愛されるために「いい子」になろうとしたり



そんなふうに、本当の気持ちをしまい込んで生きる癖が、少しずつ染みついてしまうのです。

そして大人になった今。
誰かを好きになったとき、
その“しまい込んでいた想い”が、ふいにあふれ出してくる。

愛されたかった気持ち。
認めてほしかった願い。
そばにいてほしかった想い――


もちろん、愛は与えるもの。
でも、人は誰でも、差し出し続けるだけでは疲れてしまうものです。

特に愛着に不安がある人にとっては、
与えることがいつの間にか「試される不安」や「見返りの期待」に変わってしまうこともあります。

本当は与えたいのに、
受け取ってもらえないたびに、
心がすこしずつ擦り切れていく。


「こんなに愛しているのに、どうして伝わらないの?」
「私の想いは、ただ独りよがりなの…?」

そんな切なさが、やさしい心を静かに傷つけていくのです。

求めることは、決して“いけないこと”じゃない

「自分で自分を満たす」
「自己完結した愛が理想」
…それは、もちろん大切な考え方です。

でも、最初からそれができる人ばかりじゃありません。

むしろ、「愛されたい」と願える人の心には、あたたかくて、やわらかい部分が残っていると、私は思うのです。


だから、どうか責めないでください。
今あなたが誰かを求めてしまうのは、
かつて満たされなかった愛を、今ようやく受け取りたくなっただけなのです。




この切なさも、愛のかけら。

愛を与えることは尊い。
でも、誰かを想うたびに生まれるこの切なさも、きっと同じくらい尊いもの。

「どうして、私はこんなにも愛を欲してしまうんだろう」
そう思ってしまうときは、
あなたの心が、それだけ深く、真剣に“愛”と向き合っている証拠です。


愛されたいと思う気持ちも、
苦しくて泣きたくなる夜も、
すべてがあなたの“やさしさ”から生まれていること。

その想いに、どうかそっと寄り添ってあげてください。


そして、
あなた自身のその心を、一番最初に「愛してあげる」こと。
そこから、愛は少しずつ満ちていきます。